
はじめに
「建物を建て替えたい」「老朽化が進んでいて安全面が心配」「次の入居募集に向けて一度明け渡してほしい」。オーナーや管理会社としては、こうした事情から賃貸借契約の更新を断りたいと考える場面があります。
しかし、借地借家法のもとでは、更新拒絶や解約申入れは貸主の一方的な判断で自由にできるものではありません。実際に紛争となった場合、裁判所は「正当事由」の有無を軸に、貸主・借主双方の事情を総合的に検討します。
本記事は、国土交通省の委託により作成された「借地借家法の更新拒絶等要件に関する調査研究報告書」を参照し、令和元年5月から令和6年3月までに言い渡された裁判例137件の分析結果をもとに、その判断枠組みや近年の傾向を、賃貸オーナー・管理会社向けにわかりやすく解説するものです。
法律の専門家向けの理論解説ではなく、実務の現場で更新拒絶を検討する際の判断材料や、トラブルを未然に防ぐための考え方を整理することを目的としています。
条文の確認が必要な場合は、借地借家法(e-Gov法令検索)もあわせて参照してください:借地借家法(e-Gov)
更新拒絶・解約申入れと「正当事由」の基本
借地借家法の借家(建物賃貸借)では、契約期間の満了時に貸主が更新を拒絶したり、期間の定めがない契約で解約申入れをしたりする場合でも、借主の保護が強く働きます。
その中核にあるのが、借地借家法28条の「正当事由」です。裁判所は、貸主・借主それぞれの「建物を使用する必要性」を中心に、これまでの経緯や建物の状況、立退料の申出なども踏まえて総合判断します。
ここで大事なのは、正当事由はチェックリストの○×で自動判定されるものではないという点です。実務では、資料の揃え方や交渉の進め方が結果に影響します。
「立退料を出せばOK」ではありません
実務でよくある誤解が、「立退料を提示すれば、正当事由はだいたい通る」という考え方です。確かに、裁判例を見ると多くの事案で立退料の申出がされています。
ただし、立退料はあくまで補完的要素です。主役は、貸主・借主それぞれの「建物使用の必要性」であり、金額だけで勝敗が決まるわけではありません。
裁判所が見る判断枠組み:何をどう比べるのか
オーナー・管理会社として押さえたいのは、裁判所の思考順序です。借地借家法28条は、貸主・借主それぞれの「建物を使用する必要性」を軸に、そのほかの事情(従前の経過、利用状況・現況、財産上の給付の申出=立退料など)を勘案して判断する構造になっています。
① 貸主側の「建物使用の必要性」
貸主の必要性には、自己使用(自分や親族が住む、事業で使う)だけでなく、建替えや再開発、老朽化対策なども絡みます。近時の裁判例では、特に「建替えの必要性」を軸に主張が組み立てられるケースが多い傾向です。
② 借主側の「建物使用の必要性」
借主側は、生活の本拠としての必要性(居住)、事業継続としての必要性(店舗・事務所)などが出てきます。使用期間の長さや、代替物件の探しやすさは、判断に影響しやすいポイントです。
③ そのほかの事情(経緯・現況・利用状況・立退料など)
過去のトラブルや賃料滞納、更新時のやり取り、建物の現況(劣化の程度)などは、書類と記録の有無で評価が変わります。立退料も同様で、「いくら払うか」だけでなく、「何を補う趣旨か」を説明できるかが重要です。
令和の裁判例から見える最近の傾向
報告書では、令和元年5月〜令和6年3月の裁判例137件が分析対象とされています。正当事由を肯定して明渡しが認められた割合は、約53.3%です。
この数字は「半分は勝てる」という意味ではありません。むしろ争いになれば五分五分に近いと受け止め、早めに材料を整える必要があります。
傾向1:貸主側は「建替えの必要性」を中心に争うケースが多い
更新拒絶の局面では、実務的にも「建替えの必要性」をどう説明できるかが中心テーマになりやすい状況です。老朽化や安全性、維持管理コストなど、客観資料で補強できる事情があるかが鍵になります。
傾向2:「耐震性能」は近時、明確に重視されるようになった
近時の裁判例では、耐震性能が正当事由の考慮要素として言及されるケースが増えています。大地震への社会的関心の高まりも背景にあります。
ただし、耐震性能の不足“だけ”で正当事由が常に認められるわけではありません。耐震補強で対応可能と判断された例や、明渡し後の具体的計画がないことを理由に否定された例もあり、説明の設計が不可欠です。
傾向3:立退料の申出は多いが、万能カードではない
多くの事案で立退料の申出が見られる一方で、立退料は補完的要素にとどまります。算定の「目安」や「基準」を一般化しにくい点も特徴です。
オーナー・管理会社が押さえる実務ポイント
ここからは、現場で「何をしておけばよいか」を具体的に整理します。更新拒絶の是非を断定するというより、揉めたときに耐えられる準備をイメージしてください。
ポイント1:最初に「更新拒絶のゴール」を言語化する
相談で多いのが、「とにかく出てほしい」から話が始まるケースです。計画が薄く見えやすく、交渉も裁判も不利になりがちです。まずは、ゴールを短文で言語化してください。
- 建替え(耐震性の確保、老朽化対策を含む)を実施したい
- 敷地・建物の有効活用をしたい(合理性と計画性をセットで示す)
- 自己使用(居住・介助・事業利用など)に切り替えたい
ポイント2:「建替え」なら、資料の厚みで差がつく
建替えを理由にする場合、口頭説明だけで進めるのは危険です。争いになったとき、説得力が出る順に並べると、次の資料が役に立ちます。
- 建物診断(劣化状況、修繕履歴の整理)
- 耐震診断・現況調査(耐震性の評価、想定される危険)
- 修繕・耐震補強の見積と、建替えとの費用対効果の比較
- 建替え・取壊し後の計画(スケジュール、用途、資金計画の骨子)
耐震性能が重要視される一方で、補強で対応可能と判断されたり、具体的計画がないことで否定されたりすることもあります。資料の薄さは不利に直結します。
ポイント3:借主側事情の「弱点」探しではなく、影響を見積もる
借主の使用期間が長い場合は借主に有利になりやすい傾向があります。だからといって借主の事情を攻撃的に崩しにいくと、感情対立が強まり、交渉コストが跳ね上がります。次の観点で「影響を見積もる」ほうが現実的です。
- 居住用か事業用か(事業用は金銭清算になじみやすい)
- 代替物件の探しやすさ(立地・用途・設備・面積の条件)
- 移転に伴う実損(引越費用、内装工事、営業上の損失の有無)
ポイント4:立退料は「設計」する。場当たりで出すと揉めやすい
立退料の申出は多くの事案で見られますが、万能ではありません。実務上は、次のように「何をカバーする金銭か」を先に設計してから提示するほうが、説明が通りやすくなります。
- 移転費用(引越、原状回復、内装、設備移設など)の補填
- 事業用なら営業補償の考慮(休業、看板・告知、顧客動線の変化など)
- 居住用なら転居に伴う負担の緩和(高齢・子育てなど事情に応じた配慮)
ポイント5:記録が残る形で進める(最後に効きます)
更新拒絶の話は、途中から「言った・言わない」になりがちです。以下の点は、できるだけ記録が残る形で進めてください。
- 通知(更新拒絶・解約申入れ)の時期と方法(内容証明の検討を含む)
- 交渉の経過(面談記録、提案内容、修正履歴)
- 建物の現況資料(診断、写真、修繕履歴)
- 立退料の根拠メモ(何を補填する想定か)
まとめ
借地借家法の更新拒絶・解約申入れは、最終的に「正当事由」があるかどうかで決まります。正当事由は、貸主・借主それぞれの建物使用の必要性を軸に、経緯・現況・立退料の申出などを含めて総合判断されます。
令和期の裁判例分析からは、建替え(特に耐震性能の問題を含む)が争点になりやすい一方で、耐震不足だけで自動的に正当事由が認められるわけではない点が読み取れます。だからこそ、資料と計画を整え、早い段階から交渉の設計をしておくことが重要です。
明日からの実務での行動としては、まず次の3つをおすすめします。
- 更新拒絶の「ゴール」(建替え/自己使用/有効活用など)を短文で言語化する
- 建替えなら、診断・耐震・費用対効果・計画の資料を揃えて説明可能な状態にする
- 立退料は場当たりで出さず、「何を補填する金銭か」を設計してから提示する
次回(第2回)では、賃貸人側事情の中心テーマである「建替えの必要性」をさらに掘り下げ、耐震・老朽化・計画性がどのように評価されるのかを、実務目線で整理します。
用語紹介
- 更新拒絶
- 期間満了時に貸主が契約の更新をしない意思表示をすることです。
- 解約申入れ
- 期間の定めがない賃貸借などで、貸主または借主が契約を終了させる意思表示をすることです。
- 正当事由
- 更新拒絶や解約申入れを有効にするために必要とされる、貸主・借主双方の事情を総合した正当な理由を指します。
- 建物使用の必要性
- 貸主または借主が当該建物を使い続ける必要がどの程度あるかという事情を指します。
- 立退料
- 明渡しに伴う不利益を緩和するために貸主が借主へ支払う金銭で、正当事由を補完する要素です。