
はじめに
賃貸経営や賃貸管理に携わると、「原状回復」という言葉を避けて通れません。ただし、この言葉ほど誤解されやすい用語も珍しいのが実情です。
最初に結論をお伝えします。原状回復とは「入居時の状態に戻すこと」ではありません。この誤解があると、退去精算が感情論になりやすく、説明しても納得されにくくなります。
本記事では、賃貸オーナー・管理会社の方向けに、国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」を軸として、原状回復の基本と法律上の位置づけをやさしく整理します。まずは考え方の土台をそろえ、次回以降の「契約書」「チェック」「費用算定」につなげましょう。
参考:国土交通省「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)」は、国交省ページからPDFをダウンロードできます。国土交通省 公式ページ
なぜ「原状回復」は誤解されやすいのか
「原状回復」と聞くと、次のようにイメージされがちです。
- 借りたときとまったく同じ状態に戻す
- クロスや床はすべて新品にする
- 退去時の修繕費は基本的に借主が払う
しかし、これらはいずれも正確ではありません。言葉の印象が強いことに加えて、契約時・入居時の説明が不足していると、「どこまでが借主負担なのか」が共有されないまま退去日を迎えてしまいます。
結果として、見積や請求の段階で初めて争点が表面化し、話がこじれます。原状回復をめぐる実務は、退去時だけで完結しません。むしろ、契約時と入居時の準備で勝負が決まる場面が多いと考えてください。
原状回復の正しい定義と考え方
ガイドラインの考え方を、初心者向けに一言でまとめるとこうなります。
普通に暮らしていれば自然に発生する劣化は貸主負担、通常の使用を超える損耗は借主負担という線引きです。
ここで大切なのは、「借主に厳しくする」「借主負担を増やす」ことが目的ではない点です。ガイドラインは、オーナー側・借主側のどちらか一方に偏らず、公平に負担を分けることでトラブルを防ぐための共通言語として活用できます。
この「公平に分ける」姿勢を明確にしておくと、説明が一貫し、現場でも判断がブレにくくなります。後の交渉やクレーム対応でも、根拠を示しやすくなります。

通常損耗と借主負担の線引き
通常損耗とは
通常損耗とは、賃借人が通常の方法で居住・使用する中で生じる、避けがたい劣化や摩耗を指します。代表例は次のとおりです。
- 日照や経年によるクロスの色あせ
- 家具設置による床のへこみ
- 冷蔵庫やテレビの裏の電気ヤケ
- 畳やフローリングの自然なすり減り
- 画鋲やピンによる小さな穴(下地ボードの張り替えが必要ない程度のもの)
これらは、普通に暮らしていれば一定程度発生します。そのため、原則として貸主負担として整理されます。
借主負担になりやすい損耗とは
一方、借主負担となりやすいのは、故意・過失や手入れ不足などにより「通常の使用」を超えて生じた損耗です。例えば次のようなケースが該当しやすくなります。
- 落書き、シール跡、故意による汚損
- 清掃不足が原因の著しいカビ・腐食
- 喫煙によりヤニ汚れや臭いが著しい状態
- ペットによる傷・臭い(契約内容や管理状況による)
- クギやネジによる穴、または下地ボード交換が必要な損傷
ポイントは「きれいかどうか」よりも、通常の使用の範囲を超えているかです。同じ“穴”でも、ピン穴の程度なのか、ネジ穴で下地まで傷めているのかで評価が変わります。
法律上の位置づけと善管注意義務
原状回復は、ガイドラインだけでなく、賃貸借契約の一般ルール(民法など)とも深く関係します。法律の条文をすべて覚える必要はありませんが、現場で説明する際は「何を根拠に線引きしているか」を押さえておくと安心です。
善管注意義務をかみ砕く
借主には「善良な管理者の注意をもって使用する義務(善管注意義務)」があります。難しい言葉ですが、意味はシンプルです。
借りているものを、社会通念上当たり前の注意を払って大切に使う義務を指します。
たとえば、普通に掃除をする、異常があれば放置しない、無理な使い方を避ける、といった一般的な注意を怠った結果として損傷が広がった場合は、借主負担と整理されやすくなります。
ガイドラインは法律ではないが、実務では強い味方になる
ガイドライン自体は法律ではありません。ただし、業界の標準的な考え方として広く参照され、トラブル時の説明材料としても有効です。感情論に寄りやすい退去精算を「共通の基準」で整理できる点が、オーナー・管理会社側にとって大きなメリットになります。
トラブルが起きる典型パターン
原状回復のトラブルは、退去時の言い争いだけが原因ではありません。実務では、次のような「準備不足」が引き金になることが多いです。
- 契約時に原状回復の基本(通常損耗の考え方・特約)を説明していない
- 入居時の状態をチェックシートや写真で残していない
- 費用の算定根拠(経過年数や負担割合の考え方)を示せない
- 過去の慣習だけで判断してしまい、説明が一貫しない
逆に言えば、契約時・入居時の説明と記録を整えるだけで、防げるトラブルが少なくありません。原状回復は「強く請求する」技術ではなく、納得感のある説明と手続きがカギになります。
次回につながる実務の視点
ここまでで、原状回復の基本は「入居時の状態に戻すことではない」こと、そして通常損耗と借主負担の線引きがあることを確認しました。
トラブルを防ぐための第一歩は、この考え方を「契約書」と「特約」にどう反映させるかです。特約がある場合は、借主が内容を理解し納得して合意したことを、後から説明できる形で残す必要があります。
次回は、賃貸契約書と特約のチェックポイントを、実務で使える形で整理します。管理会社の説明フローや、特約の証拠の残し方(署名欄の分離、説明記録の作り方など)も具体例で紹介する予定です。
まとめ
原状回復の基本は、次の3点に集約できます。
- 原状回復は「入居時の状態に戻すこと」ではない
- 通常損耗(経年劣化を含む)は原則として貸主負担
- 故意・過失や通常使用を超える損耗は借主負担として整理しやすい
退去精算をスムーズに進めるには、「請求の強さ」よりも「説明可能性」が重要です。ガイドラインを共通言語として使い、契約時・入居時から準備しておくと、トラブルを未然に防ぎやすくなります。
次回は、原状回復の考え方を契約書・特約に落とし込む具体策を解説します。まずは手元の契約書を見直し、「通常損耗の扱い」「特約の書き方と説明方法」に不安がないか確認してみてください。
用語紹介
- 原状回復
- 賃借人の使用により生じた損耗のうち、通常の使用を超える部分を回復することです。
- 通常損耗
- 通常の居住・使用で避けがたく生じる劣化や摩耗を指します。
- 善管注意義務
- 借りた物を社会通念上当たり前の注意を払って大切に使う義務です。