
はじめに
賃貸管理の現場では、「まだ鍵を渡していないから契約は成立していないはず」、「初期費用が入金されていないので、ノーペナルティでキャンセルできるのでは」といった相談が、日常的に寄せられます。
しかし、これらの判断を感覚的に行ってしまうと、借主とのトラブルやクレーム、さらには法的な紛争につながるおそれがあります。実務で重要なのは、「契約はいつ成立するのか」を正しく理解したうえで、その後の対応を組み立てることです。
本記事では、「諾成契約」と「要物契約」という基本的な考え方を軸に、賃貸借契約はどの時点で成立するのか、なぜ誤解が生じやすいのかを丁寧に解説します。賃貸オーナーや管理担当者が、借主への説明や社内判断にそのまま使える内容を目指します。
諾成契約と要物契約の違いを一言で整理
諾成契約とは「合意がそろった時点で成立する契約」
諾成契約(だくせいけいやく)とは、当事者の「申込み」と「承諾」が一致した時点で、契約が成立すると考える契約類型です。原則として、書面の作成や物の引渡しは、契約成立の条件ではありません。
重要なのは、契約が成立した後に、賃料の支払い、鍵の引渡し、入居開始といった「履行」が続くという構造です。成立と履行は似ているようで、法的には明確に区別されます。
要物契約とは「合意だけでは足りない契約」
一方、要物契約(ようぶつけいやく)は、合意に加えて、目的物の引渡しなどがあって初めて成立する契約を指します。典型例として、書面を作成しない金銭消費貸借(口約束の貸し借り)が挙げられます。
ただし、近年は法改正や実務の変化により、契約書や電子記録を作成する取引では、合意のみで成立すると整理される場面も増えています。「要物契約だから必ず引渡しが必要」と機械的に判断しないことが大切です。
ポイントは「成立要件」と「履行行為」を混同しないこと
諾成契約と要物契約の違いは、「いつ契約が成立するのか」という一点に集約されます。鍵を渡したか、初期費用を払ったかといった事実は、多くの場合「契約成立後に行う履行行為」です。
この整理ができていないと、「まだ何も渡していないから契約ではない」という誤解が生じやすくなります。
賃貸借はどっち?実務で誤解されやすいポイント
普通借家の賃貸借は原則として諾成契約
一般的な建物賃貸借(いわゆる普通借家)は、原則として諾成契約です。実務では、契約書への署名押印や電子契約の完了をもって、「当事者間の合意が確定した」と扱うのが一般的です。
その後に行われる鍵の引渡しや入居開始は、成立した契約を実行していく段階にあたります。ここを混同すると、判断を誤りやすくなります。
「鍵を渡していない=契約未成立」とは限らない
賃貸借が諾成契約である以上、鍵の交付は原則として成立要件ではありません。契約書を取り交わした後であれば、入居前であっても契約は成立していると整理されます。
そのため、入居前キャンセルは「契約がなかったことにする」のではなく、契約解除や解約、合意解消の問題として検討する必要があります。
書面が必須となる例外には特に注意
賃貸借全体よりも、実務で注意すべきなのは例外的な類型です。
定期借家や保証契約など、書面や電子記録が前提となる契約では、方式を欠くと想定外のトラブルにつながります。
身近な具体例で理解する
例1:賃貸借(普通借家)
条件に合意し、貸主と借主の意思が一致すれば、原則として契約は成立します。
初期費用の支払いや鍵の引渡しは、その後に行われる履行です。
「まだ入居していないから自由にキャンセルできる」とは限りません。
例2:初期費用未入金のケース
初期費用が振り込まれていない場合でも、すでに契約が成立していれば「契約不成立」ではありません。
未入金は、成立後の不履行として整理され、契約書に基づく解除や違約金の問題になります。
例3:連帯保証人の同意
賃貸借に付随する保証契約については、口頭の了承だけでは不十分です。
書面や電子的な形で残していない場合、保証自体が無効と判断されるリスクがあります。
賃貸管理の現場で使える判断の考え方
実務で迷ったときは、次の順番で整理すると判断しやすくなります。
- 問題は「契約が成立したか」、それとも「成立後に解除できるか」か。
- 対象は原則の諾成契約か、例外(要物・要式)か。
- 合意を裏付ける証拠(契約書、電子契約、メール)は何か。
- 解約・解除・違約金の条項はどう定められているか。
- 書面必須の類型に該当しないか。
この整理ができていれば、借主への説明も一貫性を持って行えます。
よくある質問
初期費用を振り込む前なら、無条件で白紙に戻せますか?
原則として、契約が成立していれば、入金の有無は成立に影響しません。
初期費用の未入金は「契約の不履行」にあたり、無条件の白紙撤回ではなく、契約書に基づく解約手続きが必要になります。
普通借家は口頭合意でも成立しますか?
理論上は成立しますが、実務では「言った言わない」のリスクが高くなります。
そのため、合意内容を必ず書面や電子契約で残す運用が不可欠です。
まとめ
諾成契約と要物契約の違いは、「合意だけで成立するか」「引渡しまで必要か」という点にあります。
賃貸借では、鍵の交付や初期費用の入金は、多くの場合「成立後の履行」です。
まず契約が成立しているかを整理し、その上で解除や解約の可否を判断する。
この順序を意識することで、実務上のトラブルは大きく減らせます。
用語紹介
- 申込みの誘引
- 相手方に申込みを促す行為であり、それ自体は契約の申込みには当たらない概念です。
- 履行(りこう)
- 契約によって生じた義務を実行することであり、賃貸借では賃料の支払いや鍵の交付などを指します。