
はじめに
賃貸管理の現場では、オーナーや入居者の不満が管理会社の担当者に集中し、強い言葉を向けられる場面が少なくありません。設備不具合や騒音、退去精算など、生活やお金に直結するテーマほど感情が高まりやすく、電話口での罵声や、メールでの人格否定、口コミ・SNSでの攻撃的な投稿へと広がることもあります。
こうした「言葉のトラブル」は、すべてが犯罪になるわけではありません。一方で、度を超えた人格攻撃は、従業員の心身を損なうだけでなく、現場の対応力や顧客満足度まで落としてしまいます。そこで本記事では、法務省が公表している「侮辱罪の施行状況に関する刑事検討会(第1回)配布資料」を手がかりに、侮辱罪の運用実態と、現場で役立つ線引き・記録・対応の考え方を整理します。
参考:法務省「侮辱罪の施行状況に関する刑事検討会」ページ(開催趣旨・開催状況)https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji12_00214.html
賃貸管理で「強い言葉」が起きやすい理由
オーナー・入居者双方の不満が「窓口」に集まる
管理会社は調整役である一方、問い合わせの一次窓口になりやすい立場です。オーナー側は「費用は抑えたい」「早く収束させたい」と考え、入居者側は「すぐ直してほしい」「安心して住みたい」と求めます。要求がぶつかる局面では、どちらの立場でも不満が高まり、担当者に強い言葉が向きやすくなります。
「説明」や「制約」が“言い訳”に見えてしまう瞬間
実務には、契約条項、修繕区分、オーナー承認、工事手配の都合など、すぐに動けない事情があります。しかし相手が困っているほど、「できない理由」の説明が受け入れられにくく、感情の矛先が担当者の人格へすり替わるケースが起きます。
電話・対面は感情が増幅しやすい
文字よりも声や表情が加わると、怒りが増幅しやすい傾向があります。特に電話は相手の状況が見えないため、担当者側も“耐えるだけ”になりやすく、組織としてのルール整備が不十分だと消耗が蓄積します。
侮辱罪とは何か(クレームとの違い)
クレームは「事実・対応」を指摘するもの
たとえば「水漏れ対応が遅い」「説明が分かりにくい」といった指摘は、業務品質や対応内容に関する評価です。言い方が強くても、内容が“業務の範囲”に収まっている限り、まずは業務改善の対象として捉えます。
人格攻撃に逸れると、話が変わる
一方で「お前は無能だ」「人として終わっている」など、業務の範囲を超えて相手の人格を貶める発言が続く場合、これは単なるクレーム対応の領域を超えます。どこからが違法かは個別事情によりますが、少なくとも組織として“許容しない線引き”を持つことが重要です。
「ネット投稿」「口コミ」では拡散が絡む
口コミサイトやSNSでは、投稿が第三者の目に触れることで影響が大きくなります。電話の罵声と同じ内容でも、公開の場で継続的に行われると、現場への打撃は一段と深刻になります。
刑事検討会(第1回)配布資料が示す運用の現実
検討会の目的は「厳罰化後の運用検証」
法務省は、侮辱罪の法定刑引上げ後の施行状況について、インターネット上の誹謗中傷に適切に対処できているか、表現の自由などへの不当な制約になっていないか、といった観点から外部有識者を交えて検証するため「侮辱罪の施行状況に関する刑事検討会」を開催しています。https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji12_00214.html
第1回会議(令和7年9月12日)では「事件処理状況」「事例集」などが配布
第1回会議(令和7年9月12日)では、参照条文、附帯決議、検討事項案に加え、「侮辱罪の事件処理状況」「侮辱罪の事例集」などが配布資料として示されています。https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji12_00215.html
処理状況(配布資料4)の“ざっくり感”を押さえる
配布資料4(侮辱罪の事件処理状況)では、改正法施行日(令和4年7月7日)以降の事案について、令和7年6月30日までに侮辱罪のみで処理された延べ人員を対象として、インターネット事案/非インターネット事案の処理類型(公判請求、略式命令請求、不起訴、家庭裁判所送致など)や科刑の内訳が整理されています。資料の記載例では、不起訴の比率が一定程度あり、また略式(罰金・科料)で処理されるケースが目立つ構成になっています。
ポイントは、「厳罰化=すぐ重い刑罰が科される」という単純な話ではなく、実際の運用は処理類型も科刑も幅がある、という現実です(※数値は資料本文の定義・集計方法を前提に読む必要があります)。
参考(配布資料4の概要が掲載されている検索結果の抜粋):https://www.moj.go.jp/content/001446562.pdf
警察庁統計など“周辺データ”も併せて確認する
検討会資料だけでなく、警察庁が公表する名誉毀損罪・侮辱罪の検挙件数の推移なども併せて確認すると、トレンドを把握しやすくなります。
事例集から読み取れる「問題になりやすい言葉」
事例集は「侮辱罪のみで処断」された確定事例を対象にしている
配布資料5(侮辱罪の事例集)は、法務省刑事局が調査・作成したもので、改正法施行日(令和4年7月7日)以降に犯行に及び、侮辱罪のみで処断され、令和7年6月30日までに裁判が確定した事例を掲載するとされています。つまり、単なる相談段階ではなく、一定の選別を経て“確定”した事例がベースです。https://www.moj.go.jp/content/001446563.pdf
賃貸管理で意識したいのは「中身」より「状況」
現場で役に立つのは、特定のフレーズを丸暗記することではありません。むしろ次のような“状況”が重なると、問題が深刻化しやすいと理解しておく方が実務的です。
- 業務への不満ではなく、担当者の人格を貶める方向に話が逸れている
- 一度きりではなく、繰り返し・執拗に続く
- 電話だけでなく、メール・口コミ・SNSなど複数の経路で攻撃が続く
- 第三者の目に触れる形(公開投稿・社内外へのばらまき)になっている
「言い返さない」だけでは解決しない
強い言葉に対して担当者が我慢し続けると、現場の離職や対応品質の低下につながります。組織として、ルール・記録・エスカレーションの仕組みを持ち、「ここから先は対応方針を切り替える」という合意を作ることが重要です。
賃貸管理の現場での線引きと対応フロー
まずは“業務対応”と“言葉の問題”を分けて扱う
修繕や精算などの争点と、担当者への人格攻撃が混ざると、交渉がこじれやすくなります。現場では、次のように分離して整理すると、会話が落ち着きやすくなります。
- 業務論点:いつ・何を・誰が・どの基準で対応するか
- 言葉の問題:人格否定や威圧的発言は受け入れない(以後の連絡ルールを定める)
電話対応:長引かせないための一言テンプレ
電話で強い言葉が続く場合、言い争いに入る前に、次の流れを意識すると被害が広がりにくくなります。
- 事実確認の姿勢は示す(困っている点は受け止める)
- 人格攻撃には線を引く(業務の話に戻す)
- 改善しない場合は、連絡手段を切り替える(メールのみ、上長同席、時間指定など)
記録:あとから再現できる形で残す
いざというときに重要なのは、「何を言われたか」だけでなく、「いつ、どの手段で、どれくらい継続したか」です。社内ルールとして、最低限次を残す運用を推奨します。
- 日時、連絡手段(電話・対面・メール・口コミ・SNS)
- 会話の要旨(業務論点と、問題発言を分けて記録)
- 担当者だけで抱えず、上長・管理責任者へ共有した時点
- 注意喚起をした文言、以後の連絡ルール(メール限定等)
エスカレーション:現場が孤立しない仕組みが最優先
担当者が単独で耐え続ける状態は、組織としてリスクです。一定のラインを超えたら、上長同席、窓口一本化、書面(メール)化、必要に応じて顧問弁護士への相談へ進むフローを整備しておくと、現場の安心感が変わります。
トラブルを減らすためにオーナー・管理会社ができること
オーナー側:方針を“先に”決めておく
修繕判断や費用負担が曖昧だと、現場は板挟みになり、クレームも強くなりがちです。オーナーとしては、次を事前に管理会社とすり合わせておくと、不要な衝突を減らせます。
- 緊急時の承認ルール(一定金額まで即時対応など)
- 原状回復や退去精算の基準(説明資料の統一)
- 入居者対応の窓口・連絡手段(電話だけにしない)
管理会社側:説明資料とコミュニケーション設計を揃える
同じ案件でも、説明の粒度や表現が担当者でぶれると、不信感が増えます。よくある論点(修繕区分、対応期限、保険の扱い、退去精算)については、定型文・FAQ・案内図を整備し、誰が説明しても同じ着地になるようにします。
口コミ・SNS:感情ではなく“事実とルール”で対処する
公開の場の投稿は、反応すると燃えやすい一方、放置してよいとも限りません。まずは社内で情報を集約し、事実関係(日時・対応経緯・契約上の根拠)を整理した上で、必要に応じてプラットフォームのガイドラインに沿った申告や、専門家への相談を検討します。
まとめ
賃貸管理会社の従業員が、オーナーや入居者から強い言葉を受けやすいのは、生活とお金に直結する苦情が窓口へ集中しやすい構造があるためです。とはいえ、人格攻撃まで受け入れる必要はありません。
法務省の「侮辱罪の施行状況に関する刑事検討会(第1回)配布資料」では、事件処理状況の整理や、確定事例を対象とした事例集が示されており、運用の現実は一律ではなく幅があることが分かります。だからこそ現場では、感情論ではなく、線引き・記録・エスカレーションを整え、担当者が孤立しない運用に切り替えることが大切です。
用語紹介
- 略式命令
- 公判廷での通常の裁判を経ずに、書面審理で罰金などを命じる手続を指します。
- 不起訴
- 検察官が証拠関係や諸事情を踏まえ、裁判にかけないと判断する処分を指します。
- 公判請求
- 検察官が被疑者を起訴し、公開の法廷で審理する通常の裁判手続に付すことを指します。