
はじめに
原状回復トラブルは、特別なケースで起きるわけではありません。実務ではむしろ、ごく一般的な賃貸住宅と、普通に暮らしていた借主との間で発生することがほとんどです。
本記事では、実際によくある原状回復トラブル事例をもとに、「なぜ揉めたのか」「どこで判断を誤りやすいのか」「どうすれば防げたのか」を、賃貸オーナー・管理会社の視点で整理します。
事例①「全部借主負担だと思っていた」
よくあるケース
退去後、オーナー側は「クロスも床も汚れている」「原状回復だから基本は借主負担」「実際に修繕費がかかっている」と考えがちです。
一方、借主側は「普通に住んでいただけ」「年数も経っている」「なぜ全額負担なのか分からない」と受け止め、対立が生まれます。
トラブルの原因
このケースの原因は、原状回復の前提が共有されていないことです。借主のいう「普通に住んでいただけ」という言葉の中には、本来は貸主負担とされる通常損耗が含まれています。
- 家具を置いてできた床のへこみ
- カーテンなどによる日焼け
- 通常の生活によるクロスの変色
この点を整理しないまま請求すると、借主は「すべて自分の責任にされた」と感じやすくなります。
防止策
- 原状回復は「新品に戻すことではない」と最初に説明する
- 家具の設置跡や日焼けは貸主負担であることを明示する
- そのうえで、借主負担になる部分を切り分けて説明する
まず通常損耗を認め、その上で請求理由を説明する。この順序だけで、対立は大きく減らせます。
事例②「入居時からあった傷」
よくあるケース
退去立会いで床の傷や壁の汚れを指摘すると、借主から「それ、最初からありました」「入居時にも同じ状態でした」と言われ、話が平行線になります。
トラブルの原因
原因は、入居時の記録が不足していることです。入居時チェックが形だけになっていたり、写真・動画・チェックシートが残っていなかったりすると、記憶に頼った説明になり、証明ができません。
防止策
- 入居時に写真・動画で状態を記録する
- チェックシートを借主と共有し、認識をそろえる
- 記録をクラウドで保存しておく
「言った・言わない」にならない環境作りが、最大の防止策です。
事例③「クロス全面張り替え請求」
よくあるケース
クロスの一部に落書きや汚損があると、業者見積が「部屋全体の張り替え」になることがあります。そのまま全額を借主に請求すると、「なぜ一部の汚れで全面なのか」という疑問が出て揉めやすくなります。
トラブルの原因
このケースでは、業者見積と請求判断を混同していることが多く見られます。業者は仕上がりを綺麗にし、色ムラをなくすことが仕事です。そのため全面張り替えを提案するのは自然なことです。
一方で、「どこまで借主に請求するか」「どこから貸主負担にするか」を判断するのは、オーナー・管理会社の役割です。
防止策
- 原則は「汚損箇所を含む最小限の範囲」であることを説明する
- 算定単位(㎡か1面か)を明確にする
※実務のヒント
業者は「色合わせのために全面張り替え」を推奨しがちですが、請求の根拠はあくまで「汚損の範囲」です。仮に全面張り替えを行う場合でも、汚損した面は借主負担、残りは貸主負担とするなど、負担の切り分けを説明できる形にしておくことが重要です。
事例④「残存価値1円だから払わない」
よくあるケース
借主から「もう価値は1円なんですよね?」「年数が経っているから払わなくていいはず」と反論され、正当な請求まで否定されてしまうことがあります。
トラブルの原因
原因は、残存価値の意味が正しく伝わっていないことです。「残存価値1円=責任ゼロ」「何でも年数で減る」という誤解が生まれています。
防止策
- 故意・過失があれば修繕は必要であること
- ただし全額請求ではないこと
- 年数が適用されない費用もあること
実務で押さえたい具体例
たとえば、喫煙によるヤニ汚れや、ペットによる臭いや著しい汚損は、年数が経っていても清掃費用や修繕費用が発生し得る代表例です。「時間の経過で自然に減るものではない」という点を、具体例で説明すると理解されやすくなります。
事例⑤「退去立会いで話がこじれる」
よくあるケース
退去立会いの場で、傷を次々と指摘し、その場で金額を伝えると、借主が強く反発し、話し合いが感情的になってしまうことがあります。
トラブルの原因
このケースでは、退去立会いの目的を誤り、判断と交渉をその場で行ってしまっていることが原因です。借主の心理的負担を考慮しないと、防衛本能から頑なになりやすくなります。
防止策
- 退去立会いは「事実確認の場」と割り切る
- 金額は後日、書面で説明する
- 入居時記録と照らして冷静に整理する
その場で決着をつけない勇気が、結果的にトラブルを減らします。
トラブル事例に共通する本質
ここまで見てきた事例には、共通点があります。
- 判断基準が不明確
- 説明が後回し
- 記録が不足している
逆に言えば、考え方を共有し、ルールを契約で整理し、記録を残している。この3点がそろっていれば、原状回復トラブルは大きく減らせます。
まとめ
原状回復トラブルは「誰が悪いか」の問題ではありません。多くの場合、説明されていない、記録がない、判断の順序がずれていることが原因です。
- 考え方をそろえる(通常損耗を先に整理する)
- 契約でルールを明確にする(特約は明確さと合意の証拠が重要)
- 入居時・退去時の記録を残す(言った・言わないを防ぐ)
- 費用算定の筋道を作る(単位と経過年数、例外を整理する)
次回は「原状回復をめぐる判例の考え方」をテーマに、裁判ではどこが見られているのかを、実務目線で噛み砕いて解説します。
用語紹介
- 通常損耗
- 通常の使用により自然に生じる汚れや傷みを指し、原則として貸主負担となるものです。
- 残存価値
- 経過年数を考慮したうえで、内装や設備にまだ残っている価値の部分を指します。
- 退去立会い
- 退去時に室内状態を確認し、事実関係を整理するための確認手続きです。